昭和40年7月5日 朝の御理解 ●
天地の親神様の願いが、うー、私共一人一人の氏子の上に成就していくと、「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と仰るような、まあその、おかげがです、神様の願いが神様の思いが私共の上に成就していくということ。これはもう実に神様も楽しいことなら、また私共も楽しい、同時に有難いことであるということを分からないけません。お道の信心の有り難さはこのへんにあるようですね。
「どうぞ、お願いしますお願いします」と言うて、お願いが成就していくというのではないのです、ね。お願いしますお願いしますの内容の中にはね、私共信心にならせて頂くということがなからないかんのです、ね。天地の親神様の願いが一人一人の人間氏子の上にそれぞれの、おー、個性・性格に応じてというか、それぞれの、おー、家の、おー、上にです、本当に神様が言わば、地上天国と、いうようなです、ね、この世は苦の世でもなからなければ苦の世界でもない。この世の中に、氏子が本当に毎日毎日、「有難いなあ、有難いなあ」と言うて過ごし暮ら、暮らせれるような、おかげが成就していくということを天地の親神様がです、願いとしておられると、ね、神様の願いが私共の上に成るということ。
それがなら、どういうような掛かり合い、どういうような、ああ、状態でです、神様の願いが成就していくかということです。一生懸命お参りしたからです、一生懸命、御用頂いたからです、成就していくということじゃないです。あいよかけよという言葉をお道で申しますが、ね、本当にこの神様の願いが、私共氏子の上に成就していくということにはどうでも、人間と神様との合作というか、ね、働き合いというか、これがなされていかなきゃならんがその、成され方がです、ね、どういうような経路、どういうような道すがらというものが、を通って、その、神様の願いが成就していくか、私共もまた、夢にも思わないようなおかげに進展してくかということなんだ。
私共が願っておることは借金払いができりゃあ、もうそれでよかごと思うとる、ね。私共の願いがもう( ? )、それでおかげのごと思うとる。なるほどそれもおかげだけれども、ね、どうしてこのようなことが起きて来ることだろうか、どうしてこのようなおかげになってきたであろうかというようなおかげ。そういうおかげをです、神様がもう、心うきうきというか、心弾まして、そういうおかげ頂いてくれよと、これは特別にです、お道の信奉者の上に、そういう思いをして下さるのじゃなかろうか、いや、お道の信奉者ではない、椛目にご神縁を頂いておる氏子の上にです、もう本当に心弾ませた思いでです、そういうおかげを受けてくれよと願っておられるかということを私は、もう痛感します。
なぜって椛目ではですね、もうそこんところをです、どういう掛かり合いで、ね、神様が私共がどういう関係の元にその願いが成就していくかということをもう本当にそこんところをばかりを、私は皆さんに聞いて頂いておるからなんです。ですから、聞いておる氏子の全部がです、そういうおかげを頂いていけれるだろう、だから、そういうおかげに成就していくということを神様が心弾ませて、私は待っておいでられるのであり、願っておられるのであるということをひとつ、分からないけませんよ。
昨日、飯塚の、東飯塚の教会に、いー、見学ですかね、こちらの関係の方達、大工さん方、それから、ああ、男の総代さん方と、それからそれに、一番関係の深い、いー、写真番の方やら美術担当の方やらを交えて、えー、17名、飯塚に4台の車を連ねて参りました、あの雨をついて参ったんですけれども。
もうその中にも、本当にそういうようなですね、神の願いをこういうふうにして実現されていきよるということを実感したですね、私は。ね、そういう神様の願いがです、夢にも思わなかったようなおかげが氏子の上に現れてくるということは、ただですね、もう私共、ちゃんとこうしとってです、そこの上に現れてくるといったようなことはないです、ね。人間氏子の様々な働きと神様との働きとがピタっと合うたような働きからしか生まれてこんのです、ね。もう本当に神様も楽しいなら私共も楽しいと。
昨日、あちらへ着かせて頂いてから、もうあの、そら立派な教会ですよね、大きな教会です。やはりあの、甘木(よの?)、甘木の教会を建てた大工さんが建てたという教会ですから。何か飯塚という所はもう、何か石炭の粉か何かで、この家が真っ黒な所らしいですね、ですからまあ汚れてはおりますけれども、とにかく、まあ立派な教会です。
まああちらこちら、おー、大久保先生ですから、もう本当に、あの、遠慮なしにこちらもお願いをして、あの、その、いろんな所も、まあ、他所の教会では見せてもらえないような所まで見せて頂いてから、まあ皆さん、勉強になったことでございましょうけれども、その勉強になったということだけでなくてです、その雰囲気が素晴らしいのです。もう神様とが氏子の願いが成就していきよるひとつの過程なら、(なんだから?)有難いのです、ね。
もう前の日に電話をいたしましてから、できるだけ大久保先生がおいでられる内にです、ああ、おいでられる時にやらして頂かなならん。3、4、5があちらに先生がおられるということでございましたから、4日の日を、昨日を選んだわけなんです、日曜でもございましたですし。ほいて、まあ、ああ、こちらから5,6人くらい行くようなふうに話しておったんですけれども、おー、言わば17人も、まあ行きましたわけなんですけど。まあ言うならぞろぞろ着いて来たわけなんです。
もう大体あなた、5,6人、おかげを頂く、関係者の方だけ、えー、あの、おかげ頂きたいと思いよりましたばってん、たらもう皆、もうぞろぞろ着いて来てから、もう総代さん大体来んでよかってすばってん、皆こうして、あの、着いて来ておりますけん、大変お世話をかけますと言うてから、仰いましたら、いや、そげんなですね、ぞろぞろ着いて来るとなんか来てくれっちゅうたっちゃ来んですよっち仰った、他所へんの教会。ね。
おかげを受けておられるです、それを私は聞かせて頂きながら、ひとつの楽しさを感ずるわけですね、神様の願いというのはそういうふうにして、成就していくのですよ。ね。来んでん良かっち言うたっちゃ来るような雰囲気なのですよ、例えて言うならば。そらもちろん、来んでん良かっちゃ(ついて?)言やしません。なら来てもらわなならんです。けれども、あんまり沢山行っておるからです、ね、もう例えば、親が子供を連れてから他所に歩きに行くとに、もう、もうあんた、(ここまかでっちゃすずしことありましたら、おっかってまで?)みんなぞろぞろ着いて来てからお世話になりますという、それなんです、私が言うたのは。
そら結構ですねと、それが繁盛ですよと、まあいう意味合いのことを言われるわけなんですけれども、本当に椛目で明日、ああ、飯塚に行くから、参拝する希望のある方達は、金額は別としてです、皆さん、車があるから、またどこどこの車も出すから、うーん、来いと言うたら、それこそ(まあだこんなにゅういんさんいん?)なすごい、着いて行くことじゃったと私は思うんです、ね。
そこにですね、言わば、この地上椛目の上にです、私共、神愛会会員の上にです、神様の願いが成就していきよる姿というものを私は感ずるんですけれども、皆さんどげん思われますか。ね。神様との氏子との間はです、そういう楽しい雰囲気の中にです、事が成就していかないけないのです。どんなに雨の中であろうが嵐の中であろうが、もうそれが楽しゅうてたまらんという感じなのです。(なべて?)大きな神様の願いが成就していくことのためにでしょうが。
そげなもん行くことなかばってんか、もう総代しとるもんじゃけん行かなできんちゅうごたっとが一人も椛目にはいないということ、昨日の17名なら17名の中に。皆、言わば親なら親を中心にしてです、それこそ(みれつもつれつ?)して行くという、そこにです、ね、ですからそういうような雰囲気がです、ね、それを昨日の場合は雨風をついてとこう、おー、ですけれども、様々な事柄の中に雨風がある。その雨風の中に、ああいう楽しいうきうきしたような、うきうきというとちょっとおかしいですけれども、元気な心でですたい、事が成就なされていく時に、神様の願いの方へ願いの方へと成就していく。
昨日、帰りましてから、うー、それを元にして検討いたしましたから、(ふでさん?)も大変、まあ気分良うですね、ならその、改めねばならんところを改めたいようなその、話し合いができるちょうど1時頃までかかりました。その後にまた、企画委員の方達の話し合いがございましたから、ちょうど皆さんが帰られるのが2時でございました、ね。
これを例えばとして椛目のお広前ご造営ということ、ね、その、祈るようなご造営がですたい、皆さんの心の中にある。自分の心の中にもそのご造営ができておる。今のような、ああ、その、御造営がですたい、楽しいまでに心が膨らむような思いでです、御造営のことに一生懸命お互いがなっておる、ね。そのことに神様も一生懸命になって下さっておる。その事とこの事がひとつになってです、楽しい、有り難い雰囲気というものが生まれてこなければならない。それは雨風をついてでもそうであるということ。
ほいて皆さん、(かいご?)されますから、夕べ帰りましてからですね、あのう、(おかーふじお?)さんの設計で、浮羽郡の方の吉井の上の方に、西見さんという病院があるです、あちらの設計で、その、できてるから、そこをいっぺん見てくれとこう言われるので、また皆であちらへ参りました、夕方から。で、あちらでまあいろいろ参考になると、うー、その、あれを見せて頂いてから帰って夕食さして頂いた。お神酒頂いて、まあ私、その、疲れれとそのお神酒で、その、もう酔いましたもんですから、この皆さんにお話は、後の、おー、お任せしてから、私ちょっと長うなって休んどりました。
●そしたらやっぱ私がおらなきゃいかんちゅうてから、また、夜に見えましたから、ああ、すぐ、また、客間の方でその事の討議をいたしましたんですけれども、その、ちょっと休んでおる間に私頂くことがこういうことを頂いたんですよ。皆さんは客間に上がられた方はご承知でしょう、あそにあの、くじらのひげの真っ暗な(おおいと?)があるでしょうが。真っ暗な何かひげのが置いてあるでしょうが、棚に。あれで私が、あの、青い、それこそ青い青い濃い青の色でですね、「天成地也」と私が書いているんです。書いておるのがあそこに上がっております。
そしてから、その、お夢の中にそれを頂いてですね、「黒いに青が一番映りが良い」ということを頂くんです。あの、真っ黒にですね、濃い緑はもう大変、もう色の中でも一番重宝されると言われるくらいに、重宝するんですよ、真っ黒と緑の色は。そしてその、中に書いてある「天成地也」なんですよ。ね。
天の願いが成就するとか、天が、「天の成る」と書いて、「地也」は「大地の地」と「也」は「一銭也」の「也」です。「何円也」の「也」が書いてある。それは、このことの御理解を頂きますとですたい、ね、神様の願いというものが神様の願いがです、地上私共の氏子の上に成就していくということ。それには、私共が大地にひれ伏したような信心から以外にはないということ。もうおかげはここに定まったという、ここに決まったという意味がその御理解の中にあるのです、ね。
神様の願いがです、地上私共の上に成る、ね、椛目の上に成る。そして、皆さんの一人一人の上に成るて、成就すると、ね。そこで、いわゆるその、苦労なんです、ね、そのくじらのひげの、あの真っ黒い黒なんです。その真っ黒い黒にです、ね、普通で言うなら本当に、苦労なんです、けれどもお道の信心さして頂く者はその苦労を苦労とせずに、それを修行として頂くと、青というのは生き生きした心ということなんです、ね。
どういう雨風をついていかなければならないようなことの中にでもです、生き生きとした修行精神を持ってです、これに取り組ませて頂く時です、もうこげん素晴らしい調和のとれた映りの良いものはないということ。問題はできる時は良い、苦労もできる時は良い。問題はこちらの生き生きした元気な心で、それに取り組むか、否かということなんです、ね。そういう一生懸命の苦労にです、生き生きとした青々とした心というものが一つになっていく時、しかもそれが雨であろうが風であろうがです、それをついて、親を中心に楽しゅう進んでいくということです。
そういうことがです、ね、神様の願いが地上になっていくところの道すがらである、過程であると思う時にそのことがすでに楽しいということなんです、ね。ですからもう苦労を苦労と思うちゃなりませんて。それを生き生きした修行としてです、受けさして頂く心がないならばです、例えばんなら(?)の色が黄であったり赤であったり、ね、茶色であったんでは映りが悪いです。
これでいけばですね、いわゆるそこにあいよかけよの働きというものがです、神様と私共との関わり合いがです、いよいよ神様の願いというものがこうやって成就して進展していくということなんです。ちょうどそういう会議半ばでした。親教会から電話かかってまいりまして、私を、是非に電話口に出てくれということで出らせて頂いたら、親先生からの電話でした。
2、3日前、(雑誌?)の教会で椛目のことについて、その、連合会の教師の先生方の会合あったということはこの前月次祭に家内が(でんさん?)して帰ってから話しておりました。それでも何とも頂かんからどげなこっちゃったじゃろうかと思いよりましたら、そのことがあった。久保山先生の、おー、お電話での話なんです、もう大変問題がこんがらがって、第一甘木関係が皆反対しておる。椛目の教会設立ということに。
だから甘木の教会の者がどげん言うたっちゃ、とにかく、とりあえず、昨日東町からも電話がかかってきたが、ね、田主丸の教会の、その、おー、証人をです、はんを早よ、1日でも早うとっとけっち、その東町から注意を受けたから、明日、私とあんたと、それから椛目の総代さんなり、またその、関係の人、話を聞いとって分かってもらえる人達、2,3人にです、朝の、おー、9時半から10時頃までの間に、いー、善導寺に来てくれるようにというようなお電話がございました。親先生がここにおいでるということ。
ほいて、今日は田主丸に、だからそんなわけで行かなきゃならない。して、田主丸の教会長先生にはんを押してもろうて認めてもらわないかん。そうすりゃあ、もう関係ない、もうどげん反対したっちゃ良かというような意味合いなんです。とにかく、昨日、話が大変ころっと変わってからましてですね、もう全然田主丸ば、が認めておれば良かっちいったような意味のことだったんです。
しかし、私はその、甘木関係の者が反対しておるということに、ちょっとおかしい、ひっかかるものがあるんですね、私の心の中に。そいで、私が思うたんだ、思うんですよ。もうさっち教会ならんで良かっちゃけんで、親先生そげんきばらんなさらんでよかです、よっぽど電話かけて言おうかごたったです、私は。
教会に、もうさっちもっちならならんですじゃないとですけん。さっち私が教師にならなようなんとじゃないとですけん。問題は神様の願いが成就してさえいけばよかっちゃから。神様の願いがどういうことかというとです、難儀な氏子を取り次ぎ助けてられるということなんだから、ね。
まあだから、もう、いくら親先生がです、そら大変ご心配をかけて相すまんと思いますけれども、肝心要の私自身がどうでもよいのであるから、ね、そして本当に甘木関係が反対しておるならいよいよ、もう教務所がこの頃からもご存知のように、もう全面的に椛目の教会設置のことに働いて下さっておるんですよ。それに、甘木関係で言うなら、反対をすると言わなならんなら、いよいよ私はご本部に行けれるチャンスができたとこういう気がいたします。
私の方が教会になろうと思うんですけれども、甘木関係が皆反対いたしますもんですからどういうもんでしょうかちゅってから、言ったら、ほらもう大変これはおもしろいことになってきはせんじゃろうかというような、私は楽しみが心の中にあるです。それがです、どうでもこうでも1日も良い教会にならんならんとか、皆に認めてもらわんならなんというようになったらです、そら大変困った難儀な問題でしょう。けれども私の心の中にはその難儀な問題がです、もうどっちかっちゅうと心がうきうき楽しいんです。神様の演出とはどういうふうに素晴らしゅう変わっていくだろうかと思うから。これなんかが、私は真っ黒いそれにです、「天成地也」を真っ青の青で書いたようなものではなかろうかと、いよいよ神様の願いがです、私共の夢にも思わないようなことに進展していきよるのだと私は確信いたします。
ですから心楽しいでしょうが、私はそれ聞いてから本当に楽しかった。親先生は大変心配しておられるんですよ、ね。だからもうあんまり皆が中傷しないうちに、田主丸関係でも久留米関係でもなからなければ甘木関係でもないです、博多関係ですから、親教会が。だから隣の隣接教会のとにかく、田主丸教会長先生にはんば早よ、押させやなならんというのが、親先生の、まあ願いらしいんです。まあもちろん、おい出ると言うから、今日参ります。
そして、なら、田主丸の先生がはんば私が押さんばのっち言わっしゃるならよか。そういう気持ちなんです。押してもどうしても私それで結構。この問題はです、どういうわけに甘木関係がそういうふうに椛目の教会設立に反対するかという訳でも聞かせて頂こうと。聞いたからといって腹ももちろん立たん。これはいよいよおもしろうなってきたぞといったような感じです。これをもうちょっと考え、このことに対してどうしてこげな難儀が続くじゃろうかということなんです、言うたらば。見方を変えますと。
けれどもその苦労をその難儀そのことがです、神様の願いの、言わば神様と私共の関わり合いにおいてです、あいよかけよの働きによってです、私共が夢にも思わんようなおかげに進展していきよる道すがらであると思うから、楽しいのです。それは私共、総代、関係者、ね、建設業の方達がです、一行17名の者が、昨日、飯塚にやらせて頂いた、それとよう似たことだとこう思うです。これがもう少し細く言うてです、皆さんの家庭の上の問題だって同じなんですよ。
いやあ、またこげな苦労がと、この修行をこちらの生き生きした心、ね、もちろんそういうような苦労に取り組ませて頂くということをです、はあ、神様が何を求めて言いござるじゃろうかと、神様はこのことによってどういう修行を私に求め給うのであろうかと。焦点をそこに置かなければもちろんいけませんよね。ですからその、その修行が、いやと思うなら、だから、もう全然、あいよかけよ的な働きというか、神様の願いが地上に成っていくというような、「天成地也」的なおかげにもなっていかないということ。
ただ、私共の姑息的な小さい願いが成就いたしましても、夢にも思わなかったような、どうしてこのようなおかげになってきたじゃろうかといったようなおかげにはなっていかないと私は思う、ね。心うきうきと言うとちょっと語弊があるかもしれませんけれども、心楽しゅう、しかも生き生きと、その苦労や問題に取り組ましてもらうということがです「天成地也」の上に、神様の願いが成就していくという上に一番、適当な、いわゆる調和の色である、黒と緑の色くらい調和する色はないということ。
私共の難儀と言うておるその難儀を修行と受けさしてもらう。生き生きした青々した心というものを、ほど、神様の目からご覧になったらです、素晴らしいことはないということ。その素晴らしいとを歯食い縛ってというのじゃなくてです、心うきうき楽しゅうと、神様って( ? )を下さるじゃろうかといったようなです、雰囲気の中に事が進められていくと。私は本当にそれをまあ、私はその飯塚の先生から言われてからそれを私は思うたんです。
はあ、あなたもう大体総代どん来んでよかとばってんぞろぞろ着いて来ますもんじゃけん、大変ご雑作かけてすいませんちゅうて、言いながら楽しいんです、私は。もうそういう言えれるほどの、そういう言えれる総代達を私が持っておるちゅったらあれけども、そういう人達が椛目におって下さることなんです。
あんた、来ないかんばのちゅって連れて行ったのではなくてです、本当にこの一般のような見かけならです、ね、昨日は特別奉仕の方達の、ここで御祈念があったんですけれども、ね、あの人達にでも私が、昨日この間一気に自動車が問題あるけんで、あんた達はどげなもんちゅってからもうはいはいちゅってから、手を挙げて来る人が沢山あったんじゃなかろうかと私は思うんです、ね。
もうそら大坪先生、有り難いことですよと、総代こげなわけじゃいけん、飯塚まで来てくれんかって言うたっちゃ、「いいや、私は何とかかんとか」と用事を言うてから、ね、なかなかそげん着いて来るもんじゃありませんと。ぞろぞろ着いて来るということ、そのことが、有り難いことですよちゅってご主人が仰ったようにです、そういう有り難い雰囲気の中に椛目の大きな神様の願いであり私の願いがです、とこう、進展していきよるということが楽しいでしょうが。
これから先どのような問題があっても有難い。真っ暗であれば真っ暗であるほど、こちらがいよいよ真っ青、真っ青ちゅったらおかしいけども、生き生きした青々ですたい、ね。青の心を持ってこれに取り組ませて頂く時に、青と黒ほど、言わば調和する色はないように、神様の心と私の心が調和していく。
そして、多くの(はん?)の悲願が成就されていくということ。もうこんなに楽しいことはない。そんなふうに私は思うですね。おかげを頂かねばなりません。
明渡 真